はじめに読むコラム
こちらの記事は東洋医学の「基礎」となるコラムです、より理解していただくために、まず、はじめにご覧ください。
日本漢方の今日までの歩み
日本における東洋医学、すなわち「中国由来の伝統医学」は、1972年9月の日中国交回復以来、この数十年で多様化してきました。
歴史を振り返ると遣唐使の時代から日本は多くの文化を中国より学びながら発展させてきました。
中国の伝統医学が最初に集大成されたのは後漢の時代です。そのため遣唐使が持ち帰った「漢の医学」が、「漢方」として日本に広まり、その後、江戸時代に鎖国をするまでの間、漢方は日本においても中国の最新の漢方を吸収しながら発展してきました。
しかし、徳川幕府の鎖国政策により、中国において進歩し続けていた伝統医学に関する情報も日本に入ってくることはありませんでした。その結果、次第に日本における「漢方」は、そのルーツである中国の伝統医学とは異なる形で発展していくことになります。
また、日本が満州から中国に進出していった時代(1937年~1945年)も中国は西洋の文化に押され、伝統医学に関する情報が日本へ伝播されることはありませんでした。
第二次世界大戦後、中国では中華人民共和国が設立され、国家的なプロジェクトのもとで伝統文化の復興を目指すようになりました。この中に伝統医学も含まれており、全国各地に埋もれていた医師を集結させ、医学的成熟度の高いものを再度集大成し、これを「現代中医学」と呼ぶようになりました。さらに専門の大学教育の中で専門医を育成できるシステムも構築されました。
一方、日本においては明治維新以降の近代化の中で、「針灸禁止令」などが発令され、東洋医学が下火になった時代もありました。また、第二次世界大戦後も中国で行われたような国家レベルでの伝統医学復興のための政策が取られることはありませんでした。
その後、漢方エキス剤が薬価に収載されるようになると、本来の使われ方とは異なり、現代西洋医学的な形で薬としての漢方薬のみが広まり、「漢方」本来の医学的な内容については一層、沈滞化が進んでしまいました。
こうした経緯がある中、日中の国交が回復し、再び日本に伝わってきた「現代中医学」は、当時、日本に残っていた漢方の知識では十分に理解ができないほど質量ともに成熟した内容となっていました。
本来であれば「昭和の遣唐使」を送ってでも、日本の東洋医学界を大きく進歩させうる絶好の機会であったはずなのですが、当時の重鎮達は高齢になりすぎていたためか、大きく発展している現代中医学を取り入れようとはしなかったようです。
前回の「日本漢方の現況」でも紹介しましたように大別すると「中医学を中心にしているグループ」、「現代医学の観点から治療の道具である漢方薬や針灸のみを利用しているグループ」、「鎖国時代に日本に取り残されて独自の路線を歩んできた漢方を推進するグループ」の3つのグループが混雑して存在する今日の日本の東洋医学界が形成されたのです。
参考文献:
- 関口善太著.〈イラスト図解〉東洋医学のしくみ.日本実業出版社,2003
- 清水宏幸.新しい医療革命―西洋医学と中国医学の結合.集英社,2004
- 安井廣迪著.医学生のための漢方医学【基礎編】.東洋学術出版社,2008
- 栗原 毅/中山貴弘/陳 志清/菅沼 栄/楊 暁波.漢方・中医学がわかる本.宝島社,2016